大正時代に入ると、我国にも全国的に鉄道が敷かれ、遠隔地と考えられていた所も身近処となってくる。八ッ目鰻専門問屋「加次井商店」は、逸早くその利点を活用する事を考えた。即ち、鉄道の客車便を使う事で、「新潟で漁獲された「活きた八ツ目鰻」を東京へ運ぶ事が出来る。活きた八ツ目鰻を使う事で、鰻の蒲焼と同じような、八ツ目鰻の蒲焼が作れる!これは、画期的なものである」と。そして、1925年頃(大正14年頃)、鉄道上信越線終着駅の上野駅に近い、帝都一の繁華街「浅草」の浅草公園松竹座前に、「八ツ目鰻蒲焼」専門店 日本第一号「八ツ目食堂」を開店する。昭和初期
浅草松竹座前「八ッ目食堂」
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活きた八ツ目鰻の蒲焼が食べれる店「八ツ目食堂」は吉原への道筋に位置し、「八ツ目を食べると、精がつく、元気が出る」と口コミで評判になり、一躍「浅草名物」となる。
当時の新聞はもちろん、浅草の劇場切符の裏、市電切符などの広告は華々しく、1936年(昭和11年)には、浅草観音・仲見世にも販売店を開店する。これにより、東京で「八ツ目鰻」がいっぺんに広まる。 |